からからと回る・・・ちっぽけな、ちっぽけな幸せ
2006年1月19日 ご主人様からポチへ ふと、冷静になると・・・
「ご主人様」などと呼ばれている(呼ばせている)ことが恥ずかしくなる。
なにが「ご主人様」なものか・・・
いったい、どこが「ご主人様」なのか・・・
「調教」という言葉も、なんだか・・・。
ところで、「調教」には2種類あると思う。
一つ目は、精神を拘束するための調教。嫌がる相手を自分の思い通りにするための調教。当然、命令も自分のしたいようにする。
二つ目は、精神を解放するための調教。だから、表面的には嫌がっても、相手が深層心理で望んでいることを命令することになる。
ぼくに限らず、SMを嗜好する二人は、通常二つ目の意味の調教を目指しているのだと思う。
セックスはコミュニケーションのひとつだ。「調教」もより二人を深く結びつけるためのものだ。
だから、調教する側とされる側とが喜びを分かち合えないと、「調教」の意味がない。
「調教」(SM)は、冷静に見ると非常に馬鹿げた行為だ。まあ、セックスそのものがそうかもしれない。
だからこそ、秘密の行為だ。そして、馬鹿げているからこそ、調教する側にもされる側にも「覚悟」がいる。努力する必要がある。そこに、非日常的な空間を作り出す「決意」がいる。
何よりも「信頼」と「愛情」がいる。
逆に言うと、「調教」は「信頼」と「愛情」の確認行為だ。
少なくとも・・・
ポチは、今日は調教されたくなかったらしい。
その時点で、調教しようとしたぼくはピエロだ。ポチにすると「嫌なセックス」だ。
ぼくは、八方ふさがりのポチに束の間の幸せを感じてもらいたいと思い、久しぶりに企画(?)したのだが、全くの見当はずれだったことになる。最初から「ズレ」ていた。
馬鹿げたことだ。
*******
今日、ポチが話すのをじっと聞いていた。
ポチは「心からの幸せ」を今までの人生で感じたことがないと言う。
「幸せ」は心のもち方の問題だと思うが、言葉で言うほど簡単なものでないことも知っている。
それにしても、「心からの幸せ」を感じたことがないというのなら、ぼくとの関係はいったいなんなんだろう、とふと思った。ほんの一瞬でも幸せを感じてくれないなら、それはとても哀しくて切ない、と思った。
でも、考えてみると、一瞬たりとも幸せを感じていないなどということがあるのだろうか・・・。
そうじゃないんだ。
ぼくとポチとでは、幸せの考え方が違うのだ、と思った。
ぼくは、そこかしこの小さな幸せを寄せ集め、その小さな幸せで幸せの塊を作ろうとする。その幸せの種類は何でもいいのだ。寄せ集めでも、雑多なものでも、自分の幸せでも、他人の幸せでも何でも良いのだ。とにかく集めるのだ。
しかし、ポチの心の中には「ポチの幸せの形」というものがあり、その形にあてはまらないとポチは幸せを感じられないようだ。いくら小さな幸せを集めても、ポチの想定する幸せの形にあてはまらないと真の意味がないようだ。
そして哀しいことに、ぼくとの関係は「ポチの幸せの形」にはあてはまるものではないのだ。
ぼくと出逢い、愛しあうことを知った、あの最初の頃、
少なくともポチは幸せを感じたはずだ。
でも、それもポチの中では「ウキウキした気分」「気が晴れた」という感じでしかないのだろう。
ただ、それでもいい。
ぼくと逢って気が晴れるのなら、それでいい。
ほんの少し、ウキウキしてくれるだけでもいい。
そう思う。
それが「ポチの幸せの形」でなくても。
「それでいい」と思うのが、単なるぼくの幸せにしかすぎないとしても。
ないよりは、あったほうがいいと思うから。
いつの日か、「ポチの幸せの形」が形になればいいと思う。
もしくは、新しい「ポチの幸せの形」が見つかるといいのにな、と思う。
ぼくは・・・ポチが望むときだけ「ご主人様」になる。ポチが望むとおりの「ご主人様」としてね。
ちっぽけな幸せでも、ないよりはあったほうがいいでしょう?
今はそれが、からからと回る、空回りであっても、からからと音がするだけ、寂しさが紛れるかもしれないでしょう?
「ご主人様」などと呼ばれている(呼ばせている)ことが恥ずかしくなる。
なにが「ご主人様」なものか・・・
いったい、どこが「ご主人様」なのか・・・
「調教」という言葉も、なんだか・・・。
ところで、「調教」には2種類あると思う。
一つ目は、精神を拘束するための調教。嫌がる相手を自分の思い通りにするための調教。当然、命令も自分のしたいようにする。
二つ目は、精神を解放するための調教。だから、表面的には嫌がっても、相手が深層心理で望んでいることを命令することになる。
ぼくに限らず、SMを嗜好する二人は、通常二つ目の意味の調教を目指しているのだと思う。
セックスはコミュニケーションのひとつだ。「調教」もより二人を深く結びつけるためのものだ。
だから、調教する側とされる側とが喜びを分かち合えないと、「調教」の意味がない。
「調教」(SM)は、冷静に見ると非常に馬鹿げた行為だ。まあ、セックスそのものがそうかもしれない。
だからこそ、秘密の行為だ。そして、馬鹿げているからこそ、調教する側にもされる側にも「覚悟」がいる。努力する必要がある。そこに、非日常的な空間を作り出す「決意」がいる。
何よりも「信頼」と「愛情」がいる。
逆に言うと、「調教」は「信頼」と「愛情」の確認行為だ。
少なくとも・・・
ポチは、今日は調教されたくなかったらしい。
その時点で、調教しようとしたぼくはピエロだ。ポチにすると「嫌なセックス」だ。
ぼくは、八方ふさがりのポチに束の間の幸せを感じてもらいたいと思い、久しぶりに企画(?)したのだが、全くの見当はずれだったことになる。最初から「ズレ」ていた。
馬鹿げたことだ。
*******
今日、ポチが話すのをじっと聞いていた。
ポチは「心からの幸せ」を今までの人生で感じたことがないと言う。
「幸せ」は心のもち方の問題だと思うが、言葉で言うほど簡単なものでないことも知っている。
それにしても、「心からの幸せ」を感じたことがないというのなら、ぼくとの関係はいったいなんなんだろう、とふと思った。ほんの一瞬でも幸せを感じてくれないなら、それはとても哀しくて切ない、と思った。
でも、考えてみると、一瞬たりとも幸せを感じていないなどということがあるのだろうか・・・。
そうじゃないんだ。
ぼくとポチとでは、幸せの考え方が違うのだ、と思った。
ぼくは、そこかしこの小さな幸せを寄せ集め、その小さな幸せで幸せの塊を作ろうとする。その幸せの種類は何でもいいのだ。寄せ集めでも、雑多なものでも、自分の幸せでも、他人の幸せでも何でも良いのだ。とにかく集めるのだ。
しかし、ポチの心の中には「ポチの幸せの形」というものがあり、その形にあてはまらないとポチは幸せを感じられないようだ。いくら小さな幸せを集めても、ポチの想定する幸せの形にあてはまらないと真の意味がないようだ。
そして哀しいことに、ぼくとの関係は「ポチの幸せの形」にはあてはまるものではないのだ。
ぼくと出逢い、愛しあうことを知った、あの最初の頃、
少なくともポチは幸せを感じたはずだ。
でも、それもポチの中では「ウキウキした気分」「気が晴れた」という感じでしかないのだろう。
ただ、それでもいい。
ぼくと逢って気が晴れるのなら、それでいい。
ほんの少し、ウキウキしてくれるだけでもいい。
そう思う。
それが「ポチの幸せの形」でなくても。
「それでいい」と思うのが、単なるぼくの幸せにしかすぎないとしても。
ないよりは、あったほうがいいと思うから。
いつの日か、「ポチの幸せの形」が形になればいいと思う。
もしくは、新しい「ポチの幸せの形」が見つかるといいのにな、と思う。
ぼくは・・・ポチが望むときだけ「ご主人様」になる。ポチが望むとおりの「ご主人様」としてね。
ちっぽけな幸せでも、ないよりはあったほうがいいでしょう?
今はそれが、からからと回る、空回りであっても、からからと音がするだけ、寂しさが紛れるかもしれないでしょう?
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