アイデンティティ・・・
 
 アイデンティティに拘らず、全ては認識の問題だと思うんだ。

 神様の認識レベルで考えると、すべてのもの、万物(実体のあるなしに拘らず)に、時空を越えて、アイデンティティが存在すると思う。たとえば、ぼく自身について言うと、ぼくが生まれる前には、ぼくは無であり、ぼくが死んでその肉体が消滅すれば、ぼくは無である。でもぼくが生きている限り、ぼくは存在し、ぼくのアイデンティティを神様は認識する。それと同じように、一匹の蚊にも神様は同様にその蚊が生きて存在する限りその蚊のアイデンティティを認識できる。そして、ぼくや一匹の蚊と同様に、たとえば、ぼくがポチを想うその想いや、ぼくは映画を見てこぼしたひとしずくの涙にも、神様はアイデンティティを認識できると思う。
 神様の認識レベルでは、ぼくが生きている時間も、蚊の一生も、想いの一瞬も、ひとしずくの涙のこぼれ落ちるまでの時間も、全てに大差はなく、全てに同様に個性を感じ、アイデンティティを認識できると思う。

 ぼくの認識レベルでは・・・、
 ポチは間違いなくポチらしく存在している。つまり、ポチのアイデンティティを認識できる。
 もちろん、ポチと出逢う前に、ポチは存在しない。
 ポチとであった瞬間から、ポチは存在する。ポチのアイデンティティを認識する。あるとき、ポチに恋をする。ぼくの中で、ポチに対する認識が変わり、ぼくの持つポチのアイデンティティが変化する。あるとき、ポチの過去の話を聞く。ぼくの中で、またポチに対する認識が変わり、ぼくの持つポチのアイデンティティが変化する。ポチからすると、ぼくがポチに恋をしようが、ポチが過去の話をぼくにしようが、ポチのアイデンティティに変わるところはない。しかし、ぼくの認識するポチは変わる。逆もまた真なりで、ぼくの話を聞いてポチが影響を受ければ、ポチが感じるところのポチのアイデンティティは変化する。もちろん、ポチのアイデンティティはポチの中で一つだけれども、以前とは違うポチがいるから、そういう意味でポチのアイデンティティが自分の中で変化する。

たとえば、外国に住む知らない人のアイデンティティなんて、ぼくには全く意味がない。たとえ、日本人であろうが、会ったことのない人なんて、いないのと同じだ。
ぼくが認識できない人のアイデンティティなんて、ぼくの血を吸う蚊一匹のアイデンティティほどの意味を持たない。

つまり、アイデンティティなんていう言葉に確固たる中身なんてないということだ。
すべては、認識の問題だ。

 
 

コメント