今日、カレー屋さんで、ビーフの塊を食べながら、ふと哀しくなった。

 ぼくは、今の法体系というか、システムというかに、哲学というか、その根源の部分で、根本的な疑問を持っている。
 というより、間違っていると思う。
どういう根拠で、人間を特別な存在として考えるのか、理由が分からない。
 なぜ、人間は殺したらいけないのに、他の生物は殺しても良いのか?
 まさか、聖書が言うように、神に似せて人間を作ったから、というわけでもあるまいし。

 人間の子どもが、人間に殺されると、誰もがかわいそうにと思う。しかし、牛の子どもが人間に殺されても、あまりかわいそうに思わない。なぜなら、その事実を知らないから。なぜなら、例え事実を知っても、牛の子どもの気持ちを知らないから。牛の母親の感情を理解しようとしないから。
 人間の母親が子を思う気持ちと、牛の母親が子を思う気持ちに、違いがあるのだろうか?
 違いがあると考える意見もあれば、違いがないという意見もあるだろう。牛は同じだが、ネズミは違うという意見もあるだろう。哺乳類の母親なら同じだが、昆虫なら違うという意見もあるだろう。
 しかし、少なくともぼくは、母親であるかぎり、どの生物も同じくらい哀しいと感じていると思う。少なくともぼくは、たとえ妄想だとしてもそういう世界観の方が正しいと思う。
 小さな虫も殺される瞬間は怖いし、痛いし、哀しいと思う。
 人間からは雑草と呼ばれる植物であっても、抜かれる時は痛いと思うし、哀しいと感じると思う。
 人間以外の生物は、言葉を持っていないから、考えるという行為は苦手かもしれない。でも、人間と同じように(否、もっと純粋に)感じる心は持っていると思うし、気持ちを伝える手段を持っていると思う。ただ、人間には伝わらないんだけど・・・。少なくともぼくは、たとえ妄想だとしてもそういう世界観の中で生きていたい。
 生命である限り、その生命の重さに変わりはない。
 自分の子どもには、みんなそうやって教えているんじゃないかな?
 少なくとも、童話の世界はそうだよね?
 
 
 今日、カレー屋さんで、ビーフの塊を食べながら、ふとそんなことを思った。
 ハンバーグならあまり気にはならないし、焼肉を食べに行くときは覚悟(?)ができているが、今日は「カレー」だったので、少し不意打ちをくらい、ふと哲学的になり、感傷的になった。それがおいしかったから、なおさらだ。
 ぼくも生物なので、自分が生きていくうえで最低限必要な行為にのみ、他の生命を奪う理由があると考えている。だから、?防衛行為、?栄養摂取行為 についてのみは「ごめんね」と基準を置いている。それから、歩いているときに、たぶん蟻を踏み殺したりしているのだが、わざとじゃないので「ごめんね」です。あとは、「ごめんね」では許されないと考えている。

 地球の毒は、人間だ・・・よね?
 鳥インフルエンザウイルスとか、エイズウイルスとか、人間なんかに比べたら、全然怖くないよね。全然悪くないよね。

 「ごめんね・・・」と言いながら、美味しく感じるのはどうなんだろう?
 人間って哀しいね。
 でも、「ごちそうさま」

 いいなあ、ミドリゾウリムシ・・・


 でも・・・
 ポチの乳房を触っていると、やっぱり人間っていいなあ、と思ってしまうんだよね(笑)

 

 

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