今日、新聞を読んでいると、国民の生活意識調査(自分の生活レベルを上流と感じるか、それとも下流か、中流か、について、現在と5年前を比較した調査)についての記事が掲載されていた。その調査結果につき、とある経済学者が論評を載せており、それが見出しにもなっていた。
 その論評の要旨は、「5年前と比べて、現在、下流意識を感じている国民が増えているのは、格差社会が広がっている証拠だ」というものだ。そして格差社会が広がっている、という論拠に「ジニ係数」という数値を持ち出していた。

 厚生労働省は3年に1度、「所得再分配調査」を実施し、その結果を「ジニ係数」という指標で表している。その数値が0であれば、完全な平等社会で、1に近いほど所得格差が大きいという概念だ。
 そして、新聞では「2002年の所得を対象にした最新調査では、ジニ係数は約0.5で、過去最高だった。つまり、世帯間の所得格差は過去最大だったことになる。」と論じている。
 なるほど、一見、単純明快な論理に思える。

 最近、良く使われる「格差社会」という言葉。でもね、日本が格差社会になりつつある、という警告は、半分はホントだが、半分はウソだ。
 というのも・・・
 その新聞が使っているジニ係数は、所得再分配「前」のデータで、確かにそれを見る限り数値は増え続けている。
 しかし、各世帯の所得から税金や社会保険料などを差し引き、その上で年金などの社会保障サービスを加えた「再配分後のジニ係数」は、実は前回調査(3年前)より減っているのだ。15年前と比較しても、0.017pointしか増加していない。
 ↓
 http://wwwdbtk.mhlw.go.jp/toukei/kouhyo/indexkk_6_3.html
 
 このように、客観的実態としては「格差社会」は広がっていないのだが、それでは、なぜ、国民は不平等感を持つのか?
 ここで有用なのが、「相対的剥奪」の概念だ。
 この概念は、今は亡き社会学者のマートンが広めたものだ。ここでは、マートンの議論には深入りしないが(マートンは、軍隊における昇進と学歴について考察している)、マートンがもし生きていれば、以下のように、今回のデータを説明するだろう。
 (なお、「剥奪」という言葉は「喪失」もしくは「不平等」と置き換えて考えればわかりやすい。)
 すなわち、景気が悪い時には、周囲の人間も困っているので剥奪感が生まれにくい。しかし、好景気になると、いい生活に対する期待が膨らむので、少々収入が増えても、逆に剥奪感が増加し、下流意識を生み出す。このことは、景気後退時期ほど下流意識者が少ないという過去のデータとも合致する。
 つまり、人は、自分の所属している環境における周囲との相対的な関係で剥奪感を感じるのであって、絶対的な(客観的な)判断をしにくい動物なのだ。
 客観的現象としての「不平等」と主観的な「不平等感」は、基本的に一致しないのだ。

 というわけで、現在、下流意識者が増えているのは、格差社会が現実に広がっているのが原因、というよりも、景気が上向いている証拠、と考える方が正しいのだ。
 この経済学者は、たぶん社会学の知識がないのだろう。
 もっとも、ジニ係数の扱い方については、経済分野の領域であるがゆえに、悪意すら感じてしまうが。

 専門家が、他の分野について見識がないゆえに、自分の専門領域について謝った認識を持ってしまうことは少なくない。
 今回の論評記事は、「専門領域しか知らないことが、ときには悪である」ことの典型例だと思う。
 データを解析する時に、専門家は自分の狭い見識で解析することの愚を恐れなくてはならない。

コメント