もし私が仏になる時、私の国の人たちの形や色が同じでなく
好き者と醜き者とがあるなら、私は仏にはなりませぬ。

仏の国においては美と醜との二がないのである。
美醜を越えたその仏性に帰れ。
この本然の性を離れて真実の美はない。
かく教えるのが美の宗教である。

「如」はまた「一」である。
「一」はまた「不二」ともいう。
それ故美にも醜にも属しないものであるし、
また醜を棄てることで選ばれる美でもないのである。

醜でない美というが如きものは高が知れている。
そんなものが真に美しいものであるはずがない。
不完全さを厭う美しさよりも、
不完全さをも容れる美しさの方が深い。
つまり美しいとか醜いとかと言うことに頓着なく、
自由に美しくなる道があるはずなのである。

本来美醜もない性が備わっているのであるから、
美しくな成ろうとあせるより、本来の性に居れば、
何ものも醜さに落ちはしないはずなのである。
それ故拙くとも拙いままに、
皆美しくなるように仕組まれているのである。

それ故素直であり無垢でありたい。
これは何も赤子そのものに戻れというのではなく、
滞らない無心な自在な境地に入れという意味である。

「井戸茶碗」は何よりの例証ではないか。
誰が作ったかも分からぬ。
一人や二人ではない。
それも貧乏な陶工にすぎなかったのである。
各々が天才だったなどと、どうして判じ得よう。
平凡極まる工人たちだったのである。
それも安物を作るのである。
一々美しさなどを意識してはいられない。
むしろ荒々しく無造作に作ったのである。

だがここでもう一つ注意を喚起しよう。
どんな後代の天才が凡人の作った「井戸」以上の茶碗を易々と作り得たか。
至難だと見える。
天才には秀でた作が出来るのである。
だが凡人にはなおもそれが出来るのである。

醜さは貧しい自己に頼る時に起る。
信心深い時代には
人間はもっと素直であり、謙虚であった。
容易に自己を忘れた。
これがどんなに彼らを幸にしたか分からぬ。
今は疑い深い時代である。

伝統は一人立ちが出来ない者を助けてくれる。
それは大きな安全な船にも等しい。
美しくすることが仏たることなのである。
美しさとは仏が仏に成ることである。

本来あるがままのものが美なのである。

柳宗悦 「美の法門」より

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