先日の「献血」の続きだが・・・、
日本人は、日本人の考えるところの「ボランティア」と欧米人の考えている「ボランティア」が異なるものであることに気がついていない。
そもそも、「ボランティア」なる概念は、十字軍における「志願兵」(徴収兵ではなくて)を意味するところに根源がある。
つまりは、ボランティア=神に喜ばれる義務的善行であり、最後の審判で天国に行くための切符なのである。
もっと具体的に言えば、日本人は、ボランティア活動を「他人のため」(見返りなく)にするのだが、キリスト教的にはボランティア活動は「自分のため」(天国へ行くため)にしているのだ。
神の恩寵を得たい(=天国に行きたい)キリスト教徒にとって、ボランティア活動は、いわば「義務」なのである。
例えば、わざわざ、アメリカがイラクの派兵するのも、彼らにとっては「ボランティア」なのである。神の恩寵を得ることがキリスト教社会における最大の「善」である以上、イラク国民にとっと迷惑であるかどうかなど、ある意味でどうでもいいのである。
神が望むのであれば、行かなくてはいけないのだ。
もちろん、石油という現実的な利益があるからだが、国民がイラクへの派兵をともかく許しているのは、そこに「神の意志」を感じるからなのだ。
ついでに「自由」の概念にも言及しておこう。「献血」は自由意志に基づくといわれているからだ。
キリスト教社会では、「自由」は全くの自由ではない。
例えば、日本では社会主義・共産主義思想は、憲法19条の「思想の自由」の範囲内であるから、全く問題ないのであるが、欧米の憲法には「思想の自由」の条項がないのである。思想の自由は「信教の自由」の範疇の問題なのだ。だから、たとえばアメリカでは、宗教を否定する共産主義政党は今でもイリーガルな存在なのだ。
つまり、キリスト教社会では、「自由」は義務的なのだ。神の恩寵を得られる範囲内でのみ「自由意志」が存在するのだ。
だから、欧米社会では「献血者」に対し、神の祝福として食事を与えたり、休暇を与えたり、ときには金銭を与える(しかし売血とはいわない)。サッカーのワールドカップを平日に観戦したいと思えば、献血に行けばよい。
日本では、何を考えてか、オレンジジュースだけだったりする。
自国で供給をまかないきれないのも当然だ。
日本人は、日本人の考えるところの「ボランティア」と欧米人の考えている「ボランティア」が異なるものであることに気がついていない。
そもそも、「ボランティア」なる概念は、十字軍における「志願兵」(徴収兵ではなくて)を意味するところに根源がある。
つまりは、ボランティア=神に喜ばれる義務的善行であり、最後の審判で天国に行くための切符なのである。
もっと具体的に言えば、日本人は、ボランティア活動を「他人のため」(見返りなく)にするのだが、キリスト教的にはボランティア活動は「自分のため」(天国へ行くため)にしているのだ。
神の恩寵を得たい(=天国に行きたい)キリスト教徒にとって、ボランティア活動は、いわば「義務」なのである。
例えば、わざわざ、アメリカがイラクの派兵するのも、彼らにとっては「ボランティア」なのである。神の恩寵を得ることがキリスト教社会における最大の「善」である以上、イラク国民にとっと迷惑であるかどうかなど、ある意味でどうでもいいのである。
神が望むのであれば、行かなくてはいけないのだ。
もちろん、石油という現実的な利益があるからだが、国民がイラクへの派兵をともかく許しているのは、そこに「神の意志」を感じるからなのだ。
ついでに「自由」の概念にも言及しておこう。「献血」は自由意志に基づくといわれているからだ。
キリスト教社会では、「自由」は全くの自由ではない。
例えば、日本では社会主義・共産主義思想は、憲法19条の「思想の自由」の範囲内であるから、全く問題ないのであるが、欧米の憲法には「思想の自由」の条項がないのである。思想の自由は「信教の自由」の範疇の問題なのだ。だから、たとえばアメリカでは、宗教を否定する共産主義政党は今でもイリーガルな存在なのだ。
つまり、キリスト教社会では、「自由」は義務的なのだ。神の恩寵を得られる範囲内でのみ「自由意志」が存在するのだ。
だから、欧米社会では「献血者」に対し、神の祝福として食事を与えたり、休暇を与えたり、ときには金銭を与える(しかし売血とはいわない)。サッカーのワールドカップを平日に観戦したいと思えば、献血に行けばよい。
日本では、何を考えてか、オレンジジュースだけだったりする。
自国で供給をまかないきれないのも当然だ。
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