書に欠かせない道具を「文房四宝」という。
すなわち、「筆」「硯」「紙」「墨」だ。
このうち、「筆」「紙」「墨」は、直接、書に現れる。
しかし、ぼくは「硯」に一番こだわった。

小学生の頃、習っていた習字の先生がいた。
大河原という姓だ。
いかにも習字の達人、という感じの姓だよね。
線の細い感じがする字を書く先生だった。
練習にはほとんど興味のないぼくだったが、唯一、興味を持ったのが「硯」だ。
その先生の硯は、水気を帯びるととても美しいのだ。
しかもその肌触りは、柔らかいのだ。
もちろん、石だから硬い。
硬いのだけど、指が吸い付くように柔らかいのだ。
赤ちゃんの肌触り、といえば言い過ぎかもしれないが、とても柔らかい感触がする。
しかも、墨が乾かないのだ。
そう、その硯が「端渓」の硯なのだ。

ぼくはとてもその硯が気に入ったが、近くには気に入ったものがなかった。そこで、東京に行った際に貯金をはたいて買った。
硯の中の硯「端渓」、その端渓硯の中でも硯の王者と言われる「老坑硯」だ。
当時でも10万円以上した。

この間の休みの間、蔵の中を探し回った。
ぼくが大学生の間に、家を引越して、そのとき以来、その硯が行方不明になっていたのだ。
結局見つからなかった。
たぶん、興味のない両親が、引越しの際に処分したんだろう。

老境に入って、時間とお金に余裕ができたら、また端渓の硯を買おう。
彫刻のない、丸い端渓を。

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