最近、格差社会、格差社会とうるさいけど、
なんとなく、全共闘時代の階級闘争理論を思い出す。
といっても、その頃は、まだ生まれていないので、よく知らないんだけど。

う〜ん、
まあ、極端なことは言いたくないけれど
自由主義を旗印に掲げる以上、格差が生まれるのは当然だよね。
本来両立できないはずの自由と平等を、あえて両立させようとするならば、保証できる平等は「機会の平等」でしかない。
でも、これって今の日本にはあるんじゃないかな?

格差のない社会を作りたいのであれば、
資本主義をやめて、共産主義にすればいいのに。
ぼくは大好きだよ、共産主義社会。

この間、運動会で身体障害者の人たちが徒競走をしているのを見た。
とても奇妙な光景だった。
どうして競争させるんだろう?
彼らに徒競走させる意味があるのだろうか。
だって、身体障害者なんだよ。

まあ、こういう意見はあるんだろうね。
「社会に出たら競争社会だから。」
それなら、健常者と徒競走させないと意味がないよね。
どうして、身体障害者同士の徒競走なんだ?

しかも、身体障害にも格差があって、徒競走の能力に極度に隔たりがある。
負けるとわかっている、歩くことさえ困難な重度の身体障害者に徒競走させる意味がわからない。
ある意味で、見世物だ。
健常者に、身体障害者の存在をアピールするという教育目的を何よりも優先させているのだろうか、その身体障害者の意思(尊厳)を無視して。

身体障害者に競争させるなら、例えば計算能力とか、肉体以外の競争でしょう?

全共闘世代が幅を利かす学校の先生がすることはよくわからない。

ただ、ポチにこの話をすると、
「障害者の親は、障害者が喜ぶことが親の喜びなのよ。」
と教えてくれた。
一理あるよね・・・。

でも、彼らは喜んでしているのだろうか?

共産主義社会にすればいいのに。
競争のない社会だよ。
牧歌的で平穏でいいよ。
分け前はみんな平等。

「額に汗を流す人が幸せになれる社会」
と、自民党も民主党も言うけれど、
それを言ったら、共産党が言うことと同じになっていることを気付かないのだろうか?

それとも、自由、自由と言いながら、国民が気付かないように共産主義に移行させようという、国家の深謀遠慮なんだろうか?

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