最近、腎臓移植の問題がニュースで大きく扱われている。
ところが、新聞を初めとしたマスコミの論調は、議論を複雑にしているとしか思えない。
きちんと、論点を整理して議論して欲しいものだ。
この問題の根っこは、腎臓移植云々ではなく、『ルールと倫理の二重構造』の問題だ。
ルールとは、その所属する団体において、遵守しなくてはならない規則を言う。
たとえば、日本に住む限りは日本国の法律を遵守しなければならない。
また、プロ野球界に所属するならば、プロ野球界の規則を守らなければならない。
ところが、このような明らかなルールのほかに、『倫理』なる曖昧なものが持ち出されることがある。
今回の腎臓移植問題で言えば、「日本移植学会の倫理指針」というのがそれだ。
そもそも、ルールのほかに『倫理』を他者に主張することが許されるのか、よくよく考える時がきていると思う。
例えば、スポーツには必ずルールがあるが、その他に『倫理』規範として「スポーツマンシップ」とか「フェアプレイ」とかといった言葉をよく耳にする。
惜しくも敗れた敗者褒め称える意味で「スポーツマンシップ」とか「フェアプレイ」という言葉を使うことは、好ましいことだと思う。しかし、ルールに従って行為をしているにもかかわらず、勝利者を「スポーツマンシップに反する」といって責めるのはいかがなものかと思う。
責めるなら、きちんとルール化するべきである。
というのも、ルールの命は「一般性」と「予測可能性」にあるからである。つまり、ルールを定める意味は、「ルールに従って行為すれば、誰が行ってもそれは善である」というところにある。
法律でも何でもそうだが、ルールがなければどう行為していいのかわからないが、ルールがあるおかげで、善悪の判断が容易に可能なのである。ルールとは、善悪の判断基準なのである。
ところが、そのルールのほかに『倫理』という相対的な善悪の判断基準があるとすると、ルールの持つ「一般性」と「予測可能性」が失われるのである。
そもそも、ルールの他に『倫理』規範があるのは、『倫理』規範が人によって異なるところにある(倫理の相対性)。つまり、『倫理』規範が一般性を持たないからである。したがって、『倫理』違反を責めることができるのは、実質的な害悪を被った当事者だけなのである。
(なお、『倫理』を「善悪の基準として普遍性をもつ規範」と定義する見解もあるが、倫理が普遍性を持っているのであれば、とっくの昔に法制化されているはずである。普遍性を持たないがゆえに、ルール化されていないのである。)
ここまで議論すれば、今回の論点はたった一つに絞られる。
つまり、「腎移植の当事者の同意があったかなかったか」が唯一の論点なのである。
すなわち、自分のからだをどう扱うかは、それが成人である限りその当人の100%自由に任される。すなわち、適切な説明があることを前提として、当人が納得の上で腎移植を受ける限りで医師が責められるべきではない。たとえ、それが病気腎移植であったとしてもだ。
マスコミは、「今回の移植は日本移植学会の倫理指針に違反している」という。
たしかに、それは事実である。
したがって、事実を事実として報道する限りは問題ない。
しかし、「倫理指針違反」をもって、当該医師を責めるのは許されるべきではない。
当該医師を責めることが許されるのは、「同意なき場合」である。
そして、その場合は、病気腎移植かどうかには関係ない。
単に「同意なき手術」を行ったための「傷害罪(傷害致死罪)」の問題である。
もっとも、これに対しては
「倫理指針」という名ではあるが、あれは『ルール』だ、という反論もあるだろう。
しかし、たとえそれが『ルール』だとしても、移植学会に所属していない以上、ルールの適用はない(ルールの適用があったとしても、「日本移植学会からの除名」以上の処罰はできない)。
日本移植学会は、日本医師会という私的な団体の私的な下部機関に過ぎないからだ。
そもそも、学会の「倫理指針」に従って行為したとしても、そのために法的に免責されることもない。
単に「赤信号、みんなで渡れば怖くない」程度の意味しかない。
その「倫理指針」を持ち出すマスコミの浅薄な知識には呆れてものが言えない。
以前書いたが、権限と責任は表裏の関係だ。
何が起こっても責任を負わない「学会」に、なんらの権限はないのだ。だからこそ、ルールではなくて「倫理指針」という名でしか表現できないのだ。
マスコミは、今後、「倫理指針」といったわけのわからないものを持ち出さずに、当事者の同意があったかなかったかに全力を尽くして取材、報道するべきだ。
もちろん、国民一般に、医療知識を普及させる意味で「こういう見解もあるんだよ」という意味で「倫理指針」を報道することは意味がある行為ではあるが。
ところが、新聞を初めとしたマスコミの論調は、議論を複雑にしているとしか思えない。
きちんと、論点を整理して議論して欲しいものだ。
この問題の根っこは、腎臓移植云々ではなく、『ルールと倫理の二重構造』の問題だ。
ルールとは、その所属する団体において、遵守しなくてはならない規則を言う。
たとえば、日本に住む限りは日本国の法律を遵守しなければならない。
また、プロ野球界に所属するならば、プロ野球界の規則を守らなければならない。
ところが、このような明らかなルールのほかに、『倫理』なる曖昧なものが持ち出されることがある。
今回の腎臓移植問題で言えば、「日本移植学会の倫理指針」というのがそれだ。
そもそも、ルールのほかに『倫理』を他者に主張することが許されるのか、よくよく考える時がきていると思う。
例えば、スポーツには必ずルールがあるが、その他に『倫理』規範として「スポーツマンシップ」とか「フェアプレイ」とかといった言葉をよく耳にする。
惜しくも敗れた敗者褒め称える意味で「スポーツマンシップ」とか「フェアプレイ」という言葉を使うことは、好ましいことだと思う。しかし、ルールに従って行為をしているにもかかわらず、勝利者を「スポーツマンシップに反する」といって責めるのはいかがなものかと思う。
責めるなら、きちんとルール化するべきである。
というのも、ルールの命は「一般性」と「予測可能性」にあるからである。つまり、ルールを定める意味は、「ルールに従って行為すれば、誰が行ってもそれは善である」というところにある。
法律でも何でもそうだが、ルールがなければどう行為していいのかわからないが、ルールがあるおかげで、善悪の判断が容易に可能なのである。ルールとは、善悪の判断基準なのである。
ところが、そのルールのほかに『倫理』という相対的な善悪の判断基準があるとすると、ルールの持つ「一般性」と「予測可能性」が失われるのである。
そもそも、ルールの他に『倫理』規範があるのは、『倫理』規範が人によって異なるところにある(倫理の相対性)。つまり、『倫理』規範が一般性を持たないからである。したがって、『倫理』違反を責めることができるのは、実質的な害悪を被った当事者だけなのである。
(なお、『倫理』を「善悪の基準として普遍性をもつ規範」と定義する見解もあるが、倫理が普遍性を持っているのであれば、とっくの昔に法制化されているはずである。普遍性を持たないがゆえに、ルール化されていないのである。)
ここまで議論すれば、今回の論点はたった一つに絞られる。
つまり、「腎移植の当事者の同意があったかなかったか」が唯一の論点なのである。
すなわち、自分のからだをどう扱うかは、それが成人である限りその当人の100%自由に任される。すなわち、適切な説明があることを前提として、当人が納得の上で腎移植を受ける限りで医師が責められるべきではない。たとえ、それが病気腎移植であったとしてもだ。
マスコミは、「今回の移植は日本移植学会の倫理指針に違反している」という。
たしかに、それは事実である。
したがって、事実を事実として報道する限りは問題ない。
しかし、「倫理指針違反」をもって、当該医師を責めるのは許されるべきではない。
当該医師を責めることが許されるのは、「同意なき場合」である。
そして、その場合は、病気腎移植かどうかには関係ない。
単に「同意なき手術」を行ったための「傷害罪(傷害致死罪)」の問題である。
もっとも、これに対しては
「倫理指針」という名ではあるが、あれは『ルール』だ、という反論もあるだろう。
しかし、たとえそれが『ルール』だとしても、移植学会に所属していない以上、ルールの適用はない(ルールの適用があったとしても、「日本移植学会からの除名」以上の処罰はできない)。
日本移植学会は、日本医師会という私的な団体の私的な下部機関に過ぎないからだ。
そもそも、学会の「倫理指針」に従って行為したとしても、そのために法的に免責されることもない。
単に「赤信号、みんなで渡れば怖くない」程度の意味しかない。
その「倫理指針」を持ち出すマスコミの浅薄な知識には呆れてものが言えない。
以前書いたが、権限と責任は表裏の関係だ。
何が起こっても責任を負わない「学会」に、なんらの権限はないのだ。だからこそ、ルールではなくて「倫理指針」という名でしか表現できないのだ。
マスコミは、今後、「倫理指針」といったわけのわからないものを持ち出さずに、当事者の同意があったかなかったかに全力を尽くして取材、報道するべきだ。
もちろん、国民一般に、医療知識を普及させる意味で「こういう見解もあるんだよ」という意味で「倫理指針」を報道することは意味がある行為ではあるが。
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