ポチにバレエダンサーのヌレエフの話をしたら、
また勝手に心の中で突っ込みを入れていたらしい。
ぼくがヌレエフを知ったのは、高校時代に観た映画なんだよ。
自主上映で、たしか「I am a danser」という題名だったような。
妹が小学生の時にバレエを習っていてね。彼女は当時中学生で、ひとりで自主上映映画なんて(喫茶店でするんだよ)怖いというので(意味がわからんが)、一緒に観にいったんだ。
途中寝ていた時もあったけど、門外漢のぼくが観ても素晴らしい踊りだった。
というわけで、勝手に思い込みをしないように。
ところで、思い込みといえば、
最近の10代の若者は、科学というものが、思い込みで始まり、思い込みで終わるということをわかっていないことに驚く。
能天気なぼくでも、高校生の時にそれくらいのことはわきまえていたものだが。
今日も「文系学部の存在意味がわかりません。」という小生意気な子がいたので、こういう話をしたんだよ。
「どうして文系学部の存在意義がわからないの?」
「文系学部って科学じゃないからです。」
「なあ、科学って何?」
「観察や実験から得られた事実をもとにして、得られるものです。」
(はあ?それは自然科学の定義だろうが・・・。まあいいや。)
「じゃあ聞くけど、カラスは黒い、という命題は科学的に正しいの、間違っているの?」
「一般的には正しいと思います。」
「ほう、一般的という意味は?」
「アルビノで白いカラスがいるからです。でも、それは病気ですから例外です。」
(ほう、よく知ってるな)
「じゃあ、赤いカラスはいるの?」
「いません。」
「どうして?」
「ありえないからです。」
「じゃあ、赤いカラスを見たという人がいたら?」
「その人がウソを言っているか、錯覚か、他の鳥と見間違ったかのどれかです。」
「なあ、言っていることが矛盾してないかな?」
「してないと思いますが・・・」
(あ、気付いてきたな)
「だってさあ、観察した事実にもとづいて言ってるんだよ、赤いカラスがいたって。」
「だから、その観察が間違っているんです・・・。」
「〜さんは思い込んでいるだけなんだよ、赤いカラスはいないって。どうして思い込んでいるかというと、赤いカラスなんていないとみんなが思い込んでいるからなんだよ。でもね、科学の歴史を紐解けばわかるけど、科学というのは常に思い込みの歴史なんだよ。観察や実験といっても、自分が知りたいことについてしか、観察したり、実験したりしないんだもの。」
「じゃあ、赤いカラスっているんですか?」
「さあ、どうなんだろう? でも、いないとは絶対に断言できないよね。科学ってそういうモンなんだよ。自分が正しいと思い込むのは良くないよ。」
たとえば、
数学というものは、論理力を養うには格好の素材だが、
ただ、数学が完全であるために、前提条件を「定義」でガチガチに縛り付けているからなんだよね。
じゃあ、定義が正しいのかというと、勝手に定義しただけで、定義自体には真実性のかけらもない。
このことを数学を教える時に徹底的に叩き込まないと、この子の様な科学教信者がはびこることになるんだよね。
自然科学というものが、すべからく「定義」から出発していることの意味をもっと深く知る必要がある。定義をしないと始まらないのだ。そしてその根本となる定義の論拠が、実に曖昧なのだ。カール・ポッパーが述べるところの、「科学は決断だ」という意味は、恐らく、この定義を決めるときのいい加減さを指し示しているのだと思う。
定義しないと始まらない科学の、その定義の不完全さを考えると、それが自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ、
「科学というものは、思い込みで始まる」というのは正しいように思う。
そういう意味で、どのような職種であれ、先生と呼ばれる人たちは、自分たちが壮大な思い込みを教えていることに、もっと謙虚であるべきだと思う。
一般論を言うのはいいが、特殊事例が常に存在し続けることに、もっと謙虚であるべきだと思う。
テレビに出ている「学者」が、さもそれが真実であるかのように得意げに話しているのを見ると、ぼくは吐き気がするのだ。
そしてこう思うのだ。
「愚かだな〜」と。
テレビの視聴者が、自分にひきつけて考える時に、常に特殊事例化することに、どうして気付かないんだろうか?
養老孟司とか、典型だな。
また勝手に心の中で突っ込みを入れていたらしい。
ぼくがヌレエフを知ったのは、高校時代に観た映画なんだよ。
自主上映で、たしか「I am a danser」という題名だったような。
妹が小学生の時にバレエを習っていてね。彼女は当時中学生で、ひとりで自主上映映画なんて(喫茶店でするんだよ)怖いというので(意味がわからんが)、一緒に観にいったんだ。
途中寝ていた時もあったけど、門外漢のぼくが観ても素晴らしい踊りだった。
というわけで、勝手に思い込みをしないように。
ところで、思い込みといえば、
最近の10代の若者は、科学というものが、思い込みで始まり、思い込みで終わるということをわかっていないことに驚く。
能天気なぼくでも、高校生の時にそれくらいのことはわきまえていたものだが。
今日も「文系学部の存在意味がわかりません。」という小生意気な子がいたので、こういう話をしたんだよ。
「どうして文系学部の存在意義がわからないの?」
「文系学部って科学じゃないからです。」
「なあ、科学って何?」
「観察や実験から得られた事実をもとにして、得られるものです。」
(はあ?それは自然科学の定義だろうが・・・。まあいいや。)
「じゃあ聞くけど、カラスは黒い、という命題は科学的に正しいの、間違っているの?」
「一般的には正しいと思います。」
「ほう、一般的という意味は?」
「アルビノで白いカラスがいるからです。でも、それは病気ですから例外です。」
(ほう、よく知ってるな)
「じゃあ、赤いカラスはいるの?」
「いません。」
「どうして?」
「ありえないからです。」
「じゃあ、赤いカラスを見たという人がいたら?」
「その人がウソを言っているか、錯覚か、他の鳥と見間違ったかのどれかです。」
「なあ、言っていることが矛盾してないかな?」
「してないと思いますが・・・」
(あ、気付いてきたな)
「だってさあ、観察した事実にもとづいて言ってるんだよ、赤いカラスがいたって。」
「だから、その観察が間違っているんです・・・。」
「〜さんは思い込んでいるだけなんだよ、赤いカラスはいないって。どうして思い込んでいるかというと、赤いカラスなんていないとみんなが思い込んでいるからなんだよ。でもね、科学の歴史を紐解けばわかるけど、科学というのは常に思い込みの歴史なんだよ。観察や実験といっても、自分が知りたいことについてしか、観察したり、実験したりしないんだもの。」
「じゃあ、赤いカラスっているんですか?」
「さあ、どうなんだろう? でも、いないとは絶対に断言できないよね。科学ってそういうモンなんだよ。自分が正しいと思い込むのは良くないよ。」
たとえば、
数学というものは、論理力を養うには格好の素材だが、
ただ、数学が完全であるために、前提条件を「定義」でガチガチに縛り付けているからなんだよね。
じゃあ、定義が正しいのかというと、勝手に定義しただけで、定義自体には真実性のかけらもない。
このことを数学を教える時に徹底的に叩き込まないと、この子の様な科学教信者がはびこることになるんだよね。
自然科学というものが、すべからく「定義」から出発していることの意味をもっと深く知る必要がある。定義をしないと始まらないのだ。そしてその根本となる定義の論拠が、実に曖昧なのだ。カール・ポッパーが述べるところの、「科学は決断だ」という意味は、恐らく、この定義を決めるときのいい加減さを指し示しているのだと思う。
定義しないと始まらない科学の、その定義の不完全さを考えると、それが自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ、
「科学というものは、思い込みで始まる」というのは正しいように思う。
そういう意味で、どのような職種であれ、先生と呼ばれる人たちは、自分たちが壮大な思い込みを教えていることに、もっと謙虚であるべきだと思う。
一般論を言うのはいいが、特殊事例が常に存在し続けることに、もっと謙虚であるべきだと思う。
テレビに出ている「学者」が、さもそれが真実であるかのように得意げに話しているのを見ると、ぼくは吐き気がするのだ。
そしてこう思うのだ。
「愚かだな〜」と。
テレビの視聴者が、自分にひきつけて考える時に、常に特殊事例化することに、どうして気付かないんだろうか?
養老孟司とか、典型だな。
コメント