今日、仕事の関係で知り合った、とても暖かなある人が、亡くなったという知らせを聞いた。
一月ほど前に、電話で来週の東京での仕事を頼まれて、でも準備がまだまだで(結局いつもぶっつけ本番なんだけど)どうしたものかと、ふと考えていたときに知らせを聞いた。
死因はインフルエンザだとか。
まだ、50歳くらいだと思うので(見た目が若く見えていたのかもしれないが)どうにも信じられないが。
インフルエンザ?

不思議なくらい哀しくなくて、
でも、涙がこぼれた。

葬式の日取りなどを聞こうと知り合いに電話をかけるも、なかなかどの人も捕まらず、密葬らしいと聞き少し安心したり。
だってここから新潟は遠いしな〜
と思ったり、そう思いながらも行く準備をしたり。

そうこうしているうちに、
なんと実は亡くなったのは一月ほど前だということが判明。
なんで、こうも連絡が遅いのか!

ただ、まったく個人的な付き合いで、家族の方もぼくのことなど知らないだろうし、そんなものなんだろう。

で、ぼんやり思ったのがこういうこと。
つまり、その人は既に亡くなり、荼毘に付されて残るは骨ばかり。
家族の方の哀しみも少しは癒えた頃だろう。
そんなときに、何百キロも離れた土地で、涙を流すことの不思議さというか、的外れというか。

若い子から、シルベスター・スタローンが禁止薬剤をオーストラリアに持ち込んで逮捕されたというニュースを聞いて、
「スタローンの身長はぼくと同じなんだよ。」
とか話していたときなので、
あったこともない人のオーストラリアの情報が即時に伝わり、
お世話になった人の訃報情報が1月後に伝わることの違和感をなんとなく感じた。

最近は、情報は即時に伝わるような錯覚を抱いていたが、
例えば、太平洋戦争時に戦地に赴いた息子の安否を祈りつつ、
実は1月前に亡くなっていた、なんてことも昔は日常茶飯事だったんだろう。

少なくともぼくの心の中では、この1ヶ月間、彼は生きていた。
そして、ぼくの心の中では今日死んだ。
人の生死さえも、相対的な存在なのかもしれないと、ふと感じた。


インフルエンザか・・・
働きすぎの人だったので、からだが極度に弱っていたのだろうか。
ぼくがぽっくり死んだとしても、
きっと同じように、ほとんどの人の生活は変わらない。

ぼくが死んでたくさん泣いてくれる人だけは大切にしよう、と思ったり。

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