明日の講演内容は何にしようか?
受講対象者が教育関係で、市や県、学校・大学関係者とかも来るらしい。一般の保護者じゃないから、少々難しい話をしてもいいわけだし。
う〜ん、明後日の人が話す内容は、ケースメソッドだから、
逆に抽象的に攻めようか?
その人がやりにくいか?
まあ、いいか。
ん〜と、
まず、不確定性原理の話から、統計性向の話でもしようか?
ハイゼンベルクの不確定性原理は,統計的・集合的な可能性を扱うものであり、個々の粒子の反応については決定できないが、全体的な反応については信頼度の高い確率予測ができると考える。
天気予報はできるが、個々の分子活動はブラウン運動で予想不可能だ、というのは典型例だ。
しかしこのことは、何も量子物理学だけの話ではなくて、
人間を扱う領域においては常に成り立つ。
例えば、人は殺人を犯す際の事情は無数にあり、誰が殺人を犯すのか予想不可能だが、しかし国家レベルで考えれば、来年の殺人件数は数量はほぼ予測可能だ。どんなに刑事政策を取ろうが、必ず一定数の殺人は起きる。
例えば、人の死因は無数にあり、誰がどの死因で死ぬかは予想不可能だが、しかし来年の肺ガン死亡者数はほぼ予測可能だ。どんな医療政策を取ろうが、必ず一定数の肺ガン死亡者は出現する。
つまり、およそ人は、何らかの行為をする際に、その時点で必要な知識というものをもちえない。
なぜなら、対象に関与する場合、行為者の思考は、行為者の取り巻く状況の構成要素になってなってしまっているからである。
そこで、教育領域でも、個々の対象から目をはずし、統計学に頼ろうとする。
その数値から、何らかのマニュアルを引き出そうとする。
曰く、こういう事案ではこう対処するべきだ、云々。
しかし、それは物事の判断を誤っている。
一般論的には、統計を扱うことは許されるし、有用だ。
しかし、個々の現実の対処に、統計に基づくマニュアルはほぼ用はなさない。
例えば、有効率3%の方法と、有効率97%の方法ががあるとする。
そこで、100人の対象者すべてに、有効率97%の方法論を薦めるのはアマチュアである。
そんなのは誰でもできる。
プロなら、有効率3%の方法論が有効な対象者を見つけ出し、それを薦めるべきなのだ。
病気であれ、非行であれ、不登校であれ、通常でない状態が出現している以上、一般論が個々に通用しないのは自明だ。
にもかかわらず、有効率97%の方法論をいつも当てはめるのは、国家の政策としては有用だが、教育従事者としては無用どころか、害悪でさえある。
国家レベルの政策運営を担う者(キャリア)はともかく、そうでないストリートレベルの従事者たるわれわれは、常に個々の事情100%で対処しないといけないのだ。
もっとも、これは労働を過剰にし、自己責任を引き起こすものではある。
しかし、それをしようとしないものは仕事を辞めるべきだ。
代わりなんていくらでもいる。
対価を得て労働している以上、プロであり、プロである仕事をするべきだ。
少なくとも目指すべきだ。
とかね。
ただ、『予備校界から見た現状』だから、その線は常に意識してと。
あっ、その前に、某予備校時代に感じた、集団授業の限界について、最初に。
そして、大手予備校の衰退、と。
そして、上記の統計学的方法論の根本的誤謬を踏まえての、
現在の学校教育の根本的解体、と。
例として、学区制、画一的進級制度の解体。
学校選択性のみならず、教師選択性の導入の不可欠性。
当然、もたらされる公務員の年功序列と終身雇用制の解体と。
ここまでいうと、やばいか?
カール=ポパーの『疑似科学』も頭において。
「或る事象を特定的にもたらす傾向を内在するシステム」が確率の実体であるというポパーの考えも。
システムに裏打ちされた制度改革。
こんなものか。
受講対象者が教育関係で、市や県、学校・大学関係者とかも来るらしい。一般の保護者じゃないから、少々難しい話をしてもいいわけだし。
う〜ん、明後日の人が話す内容は、ケースメソッドだから、
逆に抽象的に攻めようか?
その人がやりにくいか?
まあ、いいか。
ん〜と、
まず、不確定性原理の話から、統計性向の話でもしようか?
ハイゼンベルクの不確定性原理は,統計的・集合的な可能性を扱うものであり、個々の粒子の反応については決定できないが、全体的な反応については信頼度の高い確率予測ができると考える。
天気予報はできるが、個々の分子活動はブラウン運動で予想不可能だ、というのは典型例だ。
しかしこのことは、何も量子物理学だけの話ではなくて、
人間を扱う領域においては常に成り立つ。
例えば、人は殺人を犯す際の事情は無数にあり、誰が殺人を犯すのか予想不可能だが、しかし国家レベルで考えれば、来年の殺人件数は数量はほぼ予測可能だ。どんなに刑事政策を取ろうが、必ず一定数の殺人は起きる。
例えば、人の死因は無数にあり、誰がどの死因で死ぬかは予想不可能だが、しかし来年の肺ガン死亡者数はほぼ予測可能だ。どんな医療政策を取ろうが、必ず一定数の肺ガン死亡者は出現する。
つまり、およそ人は、何らかの行為をする際に、その時点で必要な知識というものをもちえない。
なぜなら、対象に関与する場合、行為者の思考は、行為者の取り巻く状況の構成要素になってなってしまっているからである。
そこで、教育領域でも、個々の対象から目をはずし、統計学に頼ろうとする。
その数値から、何らかのマニュアルを引き出そうとする。
曰く、こういう事案ではこう対処するべきだ、云々。
しかし、それは物事の判断を誤っている。
一般論的には、統計を扱うことは許されるし、有用だ。
しかし、個々の現実の対処に、統計に基づくマニュアルはほぼ用はなさない。
例えば、有効率3%の方法と、有効率97%の方法ががあるとする。
そこで、100人の対象者すべてに、有効率97%の方法論を薦めるのはアマチュアである。
そんなのは誰でもできる。
プロなら、有効率3%の方法論が有効な対象者を見つけ出し、それを薦めるべきなのだ。
病気であれ、非行であれ、不登校であれ、通常でない状態が出現している以上、一般論が個々に通用しないのは自明だ。
にもかかわらず、有効率97%の方法論をいつも当てはめるのは、国家の政策としては有用だが、教育従事者としては無用どころか、害悪でさえある。
国家レベルの政策運営を担う者(キャリア)はともかく、そうでないストリートレベルの従事者たるわれわれは、常に個々の事情100%で対処しないといけないのだ。
もっとも、これは労働を過剰にし、自己責任を引き起こすものではある。
しかし、それをしようとしないものは仕事を辞めるべきだ。
代わりなんていくらでもいる。
対価を得て労働している以上、プロであり、プロである仕事をするべきだ。
少なくとも目指すべきだ。
とかね。
ただ、『予備校界から見た現状』だから、その線は常に意識してと。
あっ、その前に、某予備校時代に感じた、集団授業の限界について、最初に。
そして、大手予備校の衰退、と。
そして、上記の統計学的方法論の根本的誤謬を踏まえての、
現在の学校教育の根本的解体、と。
例として、学区制、画一的進級制度の解体。
学校選択性のみならず、教師選択性の導入の不可欠性。
当然、もたらされる公務員の年功序列と終身雇用制の解体と。
ここまでいうと、やばいか?
カール=ポパーの『疑似科学』も頭において。
「或る事象を特定的にもたらす傾向を内在するシステム」が確率の実体であるというポパーの考えも。
システムに裏打ちされた制度改革。
こんなものか。
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